偏頭痛

てんきわるいのすぐわかってべんりよね

緑の丘のすてきなお家

「あなたが守ってあげなさい」

3歳の時、両親が離婚した。原因は父親の不倫と母親が父親の実家と関係が上手く築けなかったから…他にもあるのかもしれないけどもう20年以上も前のことなので当の本人達も覚えていないと思う。母親はとても強い人で、でも脆い人だった。離婚した時に祖母がわたしにそう言ってきた。よくある、話である。

 

野菜が嫌い。特に深緑色の野菜が好きではない。葉っぱの味がする。本当に好きだったのはハンバーグとかカレーとかシチューとかなんだけど好きなものは?って聞かれていつも「野菜」と答えていた。ご飯の前に祖母がお菓子を渡そうとしてきたら「ご飯の前だから今は食べないでおくね」と言った。そう言うと、周りの大人が喜んでくれるのを知っていたから。「この子は偉いね。」と。

大人がわたしのことを褒めると、それはイコールわたしを女手一つで育てている母親が褒められていることになる。母親はいつも誇らしげだった。それがすごく嬉しかったので、いい子でいる癖がついてしまった。色のついたジュース。子供が好きな変な色のお菓子。コンビニのカップラーメン。ほんとは全部興味があったのに。

ある日、男が家に転がり込んできた。母親と2人で大切に築いて来た大切な大切な家にだ。その男はものすごく子供が嫌いで、見るのも嫌だったらしい。1年くらいは一緒に住んでいたはずなのにわたしはその期間6畳の自分の部屋に閉じ込められていたので一緒に食卓を囲んだのは本当に片手で数えられるくらいだったと思う。そのくせ勝手に部屋に入ってきては部屋が汚い!とか難癖をつけてたくさん殴られた。どうして母親はわたしじゃなくこの男と一緒にいることを選んだんだろう…と思っていた。

その頃お誕生日に祖母がシルバニアファミリーの「緑の丘のすてきなお家」を買ってくれた。

当時玄関に風見鶏がついた緑色の屋根の家が描かれた小さな絵が飾っていて、「これはだれのおうち?」と母親に聞いたら「いつか住みたい場所」と言っていた。

その風見鶏の家にそっくりだったのだ。

わたしにとってシルバニアファミリーは幸せの象徴だったので誕生日に買ってもらった日はとてもご機嫌だった。母親は開けると散らかるから開けたらダメ、と言った。ので緑の丘のすてきなお家が入った箱は5歳の誕生日に買ってもらってから小学2年生になるまで一度も開けたことがなかった。

1人で部屋に閉じ込められている間はいろんなことを想像した。兄弟がいる想像。小学校に通う想像。魔法使いになる想像。占い師になる想像。(Dr.リンにきいてみてという漫画がすごく流行っていた)母親が開けてはいけない、って言った緑の丘のすてきなお家が入った箱は、私専用の勉強机になった。毎日1人で喋った。架空の兄に、架空の姉に、架空の母親に、架空の父親に。架空の友達に、架空の先生に。

そして男は急に借金を母親に押し付けていなくなった。信じられないくらい家計が貧乏になった代わりに、わたしは部屋から出ることが出来た。前に牛乳を零したのを上手に片付けられなくて部屋は少し臭いまんまだった。

今は大人になってお金を稼ぐ知識があの時より沢山あるのでちゃっちゃと稼いでそれをぽんっと払ってあげるのが一番の解決策になるんだけど、当時はそんなこと出来るはずもなく、晩御飯にしけたカールを食べることで家計の負担を減らしたつもりになっていた。トラウマ、みたいなものって信じないタイプなのに何故かカールはあれから食べられなくなった。

それから母親はあんまり家に帰ってこなくなった。私にはわかる。母親はわたしのこと、産まれてから今に至るまでずっと大好きでいてくれてたはずだけど、邪魔な時もあったはずで。人間は犬や猫と違ってほっといてもある程度なんとかできるので、わたしは邪魔だからほっとかれていたんだな、と。20歳の時受けたカウンセリングでそれがネグレクト、と呼ばれる虐待の一種だと知った。愛されているのに虐待されることもあるのか…と思った。

小学二年生のとき、父親ができた。今度の男は子供が好きなんだな…と初めて会った時安心した。新しい父親は交友関係が広く、色んなところに連れて行ってくれたし、それこそ友達とバーベキューやらスキー旅行やらを積極的に計画してくれて、わたしが憧れていたことは全て叶えてくれた。母親も楽しそうにしていたし、今まではわたしが母親を「守る」役目だったのに、その役目は自然と新しい父親に取られる形になった。わたしの産まれてきた意味も生きている意味もそこで宙ぶらりんになってしまった。父親の友達の子供は女の子でわたしより3つ歳下だった。ある日遊びに来ることが決まって母親が「そう言えば随分昔に買ってもらったシルバニアファミリーのセットあったんじゃない?あれで遊べば?」と言ってきた。

開けたくて開けたくて開けたくて開けたくて開けたくて開けたくてたまらなかった緑の丘のすてきなお家は、本物の勉強机が来てからずっと押し入れの奥にしまわれてたのに突然日の目を見ることになる。当時はあんなに憧れて楽しみにしていたすてきなお家は、思っているより素敵ではなかった。小さくて簡素で、すぐに飽きてしまった。そしてその女の子にあげた。

 

人生で一番幸せだった時っていつ?って聞かれると5歳のとき、と迷わず答えてしまう。

晩ご飯はコンビニのおにぎりかしけたカールだったし母親はなかなか帰ってこなかったしお留守番が仕事だったから友達は出来なかったしシルバニアファミリーのおうちは開けさせても貰えなかったけど、母親と二人きりであの狭い家に住んでいたあの日々が一番幸せだった。もうどうもがいても戻れない5歳。

 

もし子供が出来たら与えたおもちゃはすぐに開けさせよう、流行り廃りがあるので2年も経てばそのおもちゃはゴミになってしまうのだから。幸い子供ができることは無いのでいらぬ心配だったな。

 

音楽は世界を救うのか否か

実に2週間ぶりの日記である

そもそもなんで日記を書いているかというと

表現する仕事をしているからである。熟考しながら自分の考えを言葉にして纏める作業は実際どんな場面でも活きてきたりするし、思いついた綺麗な言い回しは芸能活動において肥やしになったりするわけです。

まあそんな偉そうなことを言いながら2週間ぶりになってしまった。書きたいことも表現したいことも特になかった。大抵重い腰をあげて筆をとるときは何か言葉にしてしまいたいくらい切ない気持ちになった時なのだ。

おおよそ、楽しい日々を送っていたので書けなかったのだと思う。

 

「人生とは」「なんのために生きているのか」

人間が生きる上で避けては通れない問いではないだろうか。「あ〜〜わたしなんのために生きてんの?」と思ったことがある人間は少なくないはずだ。え?だってあなたはなんのために生きているの?守るべき家族、こなすべき仕事をあげる人間もいるだろう。だけど君が生まれていなかったらそのポジションにはほかの人間がついていた。つまりどんな出来事においても"わたしじゃないとだめだった"というものは1つとして、1つとしてないのである。君のことを、わたしのことを、大切と思ってくれている人間がいるかもしれない。けどその人間との出会いは"たまたま"であって必然ではない。時間をかけて信頼度や愛情の量が変わってその"たまたま"がかけがえのないものになることはあるのかもしれないが。(この思考を教えてくれた人がいる。目からウロコだった。)

詰まるところ、わたしは24歳5ヶ月になる今も「なんのために生きているのか」「24年5ヶ月もなんのために生きてきたのか」分からずにいる。これから先も分かることがないのかもしれない、と朧気に思いながらもずっと問い続けている。この先、例えば結婚したとする。子供が産まれたとする。もしかしたら大きな仕事と巡り合うかもしれない。たくさんの人間から必要とされる時が来るかもしれない。寿命を全うするならあと60年くらいは人生が残っているはずなのでそういう瞬間が絶対ないとは言いきれない。果たしてそのときわたしは「このために生まれてきたぞ。」と胸を張れるのだろうか。否、おそらく張れない。

音楽が世界を救うのか、音楽は魔法なのか、様々な人間がそんなことを考え、議論し、争ってきたと思う。実際音楽は世界を救うのかどうかなんて知らんし、魔法、という非科学的なものは信じていない。だけどわたしは音楽をしたい、と思った時から今に至るまで、結構長い時間が経ってしまったけど一度も諦められなかった。ピアノ、ドラム、ギター、歌…といろいろ齧ってきたけど才能がないのは結構早い段階で気付いていた。まあ小さい頃からピアノを習っていたらもう少しましだったのかしれないけど、ドラムもうまくなる前に辞めてしまったしギターに関しても同じで、唯一辞めてないのが歌なんだけど、歌は悲しいくらい上手くない。人を惹き付けない。めちゃくちゃ下手な方がまだマシである。特徴がない。特徴がないから歌割りも特にわたしじゃないと務まらない部分は担っていない。ここはお前だから任せたよ。なんてところは1つとしてないことをわたしは知っているのだ。わたしの歌を聴いても「歌いいな」と思う人はいない。歌声を褒められたことは片手で数えられるくらいだ。ほんとはこれが、死ぬほど苦しくて、悲しくて辛い。辛過ぎて「もう辞めてしまいたいな」と思ってしまうのが怖すぎるからずっと目を逸らしている。

音楽は、好きじゃない。好きすぎるから好きじゃない。どうして好きすぎるのに才能がないんだろう。って才能がある人間が憎くなってしまうから。音楽が好きなせいでずっと音楽に苦しめられてきたので音楽は嫌いだ。声はどうして整形出来ないのかな〜って思う。

音楽をやっているときより幸せな瞬間は沢山ある。美味しい食べ物を食べている時、好きな人間と一緒に過ごしている時。かわいい服や素敵な化粧品を買った時。だから音楽がなくなっても、もう生きている意味ないな、なんてふうには多分絶望しない。でも、分からないから死ぬまで永遠に「なんでわたしは生きているのかな」と問い続ける。たとえ、泣けるほど幸せな瞬間を迎えたとしてもだ。音楽は残る。音楽は死なない。例えばわたしが歌った歌が入ったCD、手に入れてくれた人がそれを家の棚に並べるとする。そしたらその人の家のその棚の中でわたしは生き続ける。

音楽とはすごいのだ。音楽は記憶の手掛かりになることも多い。あのとき辛かったな。あの曲沢山聞いたな。とかあの人はあの曲が好きだったなあとかそういうのだ。わたしは未だに聴く。中学生の時好きだった曲も、それがなんで好きだったのかも覚えている。この曲を聞くとこの気持ちになる、って分かっててその気持ちを思い出したくて聞く日もある。

それが生きる意味になるかどうか分からない。が、少なくとも「あ、わたし生きていたのだな」と思う日はあるのではないだろうか。生きてきた証、みたいなもの。

音楽、それから文章。写真もそうだろう。自分の気持ちや考え、信条、想像、なんでもよい。何かを表現して"残す"ということは、もし生きている意味が死ぬまで分からなかったとしても生きていたことは実感しながら死ねるのではないかな、と思うわけです。

だからきっと辞められなかったんだろうな。

 

あぁ、妬ましいよ。歌が上手い人間が。心がグッとなるような声を持つ人間が。

死ぬ時、「わたしはこれのために生きてきたんだなあ」って思えるものと出会ってますように。

 

 

雑記

18年間、一人っ子だった

 

つまるところ18年間は家族、親戚の愛情は独り占めだった。特に祖父母は私が初めての孫だったため、いろんなものを孫娘に買い与え、ものだけではなくいろんな経験を与えてくれた。家庭環境は決して良くなかったけれど大してグレずに育ったのは恐らく祖父母…というか祖母の影響が大きい。(バイト休む言い訳に何度も危篤にしてごめんなさい)

6年前の今日、わたしは受験生で、あと4ヶ月後にセンター試験を控えていてすごくピリピリしていた。そして母親はその10ヶ月前から私よりもずっとずっとピリピリしていた。

弟が産まれた。

よく、子は鎹と言う。我が家ではもうわたしは鎹の役割は十分に果たせていなかったし、それどころかわたしが原因で父親と母親は殴り合いの壮絶な喧嘩をよくしていたので弟が産まれて急激に家庭は華やいだ。冬から春になったみたいだった。赤ん坊というのは可愛いもので、見ていて飽きないものなのだ。子供は好きじゃない。塾の講師を1年少しやっていたけれど生徒が可愛いと思ったことは一度も無い。教えていたのは高校生だったのでそれもそうである。けれど弟は可愛い、と感じた。その一年前に母親の妹が子供を産んだけれどその時はもっと他人事だった。それとは全然違う感覚だった。それにもう18歳だったので母親をとられる淋しさ、みたいなものが全くと言っていいほどなかった。男の子が産まれて、さらには自分の遺伝子を残せて父親は本当に幸せそうだった。父親のわたしに対する悪意なき束縛が少し和らぐんじゃないかと密かにわたしは期待していた。

 

わたしは受験に失敗した。ピークで成績が良かったのも受験に対してすごくモチベーションがあったのも高校2年生の冬頃までで、何故か高3になると、どんどん勉強が手につかなくなってしまって、それまで得意だった教科の点数さえも落とすようになってしまった。第一志望の判定が高2の時より落ちた時、わたしワンランク志望校を落とした。センター試験には自信があった。国語も数学も社会もセンター模試では大体8〜9割をマークしており、高3の夏に設定し直した志望校だと、A〜B判定は余裕で出ていたのでわたしも、そして恐らく両親も、それからずっとわたしの味方でいてくれていた祖母もまさかわたしが大学に落ちるとは思っていなかったに違いなかった。

 

まあ、落ちた。

あれだけ自信があったセンター試験にこけた、というかもう分かっていた。受ける前からこれは無理だ、と

後にも先にもあれほど緊張で手が震えたことは無い。自己採点する前からもうダメだって分かって、帰りに母親に肉まんを買ってもらった時はもう死んでもいい、とさえ感じた。あの頃はもうずっと、テストに失敗しただけで成績を落としただけでもうわたしは死ぬしかないんじゃないか、と思ってしまう人間だったのだ。

あとはもうお察しで、わたしは全然志望していない家から2時間以上もかかる大学に入学、そして"いろいろあって"中退をした。あのセンター試験の日、多分私は死んだ。それから親の興味も祖父母の興味もすべて母親の妹の子供や、弟にうつった。家庭でもわたしは透明人間になってしまった。

 

けれど同時に何かから解放されたような気持ちにもなった。今まではいい大学に入るためだけに生きていたのだ。いきなりそれが絶たれてやりたいことを好きにやってもいい環境に立たされた。やりたいこと?なんてものはなかった。そして大いに困り、大いに時間を無駄にし、今に至る。

 

アイドルはリバイバルだった。わたしの再生。違う名前になったら生き返ることが出来る、そう感じた。人権を得た気持ちになった。

 

弟は今もすくすく育っていて、なんと私立の幼稚園に入学した。とても制服が可愛くて人気者だそうだ。友達もたくさんいるみたい。笑うと大福みたいになる、あの笑顔を見るとなんか何もかもがどうでもよくなる時がある。

子供の笑顔は薬だ、わたしは弟と同じ歳の頃はあんなふうにんふふふふとは笑わなかった。

今と同じ、アイドルと一緒、誰に対しても求められた笑顔しか出来なかった。それを見て母親はどんなことを考えていたのか、母親はわたしの笑顔が好きだ、とは言ったことがない。

 

弟が優しい子に育っていることを感じられる瞬間は多々あって、それを感じる度に仄かな誇らしい気持ちと嬉しい気持ちになる。

「優しい子」だよ、ってずっと言われてきた。私はそう言われるのが嬉しかった。ママが何度も言ってくれた。わたしが優しい子でいることでママの今までの子育ては間違ってなかった証明になっていた。あなたは優しい子だよと言われる度にいつもちょっと泣きそうになるのだ。

 

ほんとは優しい子じゃない

でも今は生き返ってずっとずっとなりたかった"優しい子"として生きてるんだ

 

ロードムービー

小学校の頃、塾に通っていた

 

それは地元では有名なかなり厳しい塾で、各近隣地域の校舎の上位5名しか入ることの出来ないクラスにわたしは在籍していた。

小学校6年生の時にその塾で社会科を担当してくれていた先生をわたしはいたく気に入っていた。小指が欠けた、眼鏡の、不思議な先生だった。

朝井、という名前のあさが浅じゃなくて朝、というのもかっこいい!と感じていた(ここでいうかっこいいは男性的魅力のことではない)し、わたしが確認テストでカンニングをした時に、怒鳴らず淡々と怒ってきたその態度が、今まで出会ってきたほかの大人と違ってて何とも興味深かった。その時までは大人とは怒鳴ったりヒステリックになったり殴ったりすることで怒りを表現する生き物だと思っていたので、何もかもが違った、初めてのジャンルの人間、わたしにとっては衝撃的な出会いである。

社会科は単純に面白かった。その先生が教えるのがめちゃくちゃに上手かったので今思えばそれのおかげだったのかもしれない。

当時その塾には"資料集"と呼ばれた社会科の先生が作った分厚いプリント集があった。この穀物はどの国からどれくらい輸入されてるのか、この水産物はどこの県が一番捕獲量が多いのか、そういった農業、工業、林業全てにわたるデータがびっしりと載っていて、誰にも信じてもらえないかもしれないが、そのクラスの大半が私も含めその資料集の端から端までを暗記していた(キモい)、そしてそのプリントを1枚1枚丁寧にファイリングしたファイルをわたしは本当に宝物だ、と思って何よりも大事にしていたしどこに行くにも持っていってた。(キモい)

資料集を覚えるにあたって、まずは日本のどの位置にどの県があって、はたまた平野、川、山、盆地、半島、湖、湾、海、代表的なものは全て覚える必要があった。数え切れないほどの確認テストがあり、それをクリアしないと夜中まで居残り確定である。擦り切れたテープみたいに何度も何度もその名前を脳内に刻んだ。庄内平野十勝平野知多半島知床半島利根川信濃川阿蘇山、英虞湾、小学生が書ける漢字じゃないものも全て漢字で覚えなければいけないのだから、ほんとにあっぱれである。24歳のわたし、英虞湾なんて突然書けと言われても書けないぞ、12歳のわたし偉すぎるな…

 

いつか、全部行きたいと思っていた。このプリントにあるところに全部。せっかく馬鹿みたいに何度もノートに書いて、怒鳴られたり怒られたり泣いたりしながら覚えたんだから。そう思っていた。

 

利根川関東平野を横断し太平洋に注ぐ、流路延長は約322kmで信濃川に次いで日本第2位、流域面積は約1万6840km2で日本第1位であり、日本屈指の大河川である。多分当時はその関東平野の気候まで暗記していたけれど、今はもう分からない(住んでいるのに!!!!)

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こういうとき横じゃなくて縦で撮っちゃうあたりめちゃくちゃセンス無いな…

今日行ってきた。大人になったから行ってきた。大人になったし、本当は阿蘇山も登りたいし木曽川揖斐川長良川も見に行かなきゃ。

庄内平野十勝平野は絶対行くんだ…

利根川は流域面積が1位というくらいだから広い川なんだけど確かに大きくてすごい…とはなったけど別に感動はしなかった。というよりかは自分の知識を自分の目で確認する作業が好きなのでその作業ができた達成感の方が大きかった。

国道6号線を真っ直ぐ歩いてて、この道を真っ直ぐ歩けば東京に着くんだと思った。単純な話本州てあれば青森県から山口県までは真っ直ぐ歩いていけば着くはずだ。

真っ直ぐ歩けばとりあえず着く、という言葉をよく使ってしまう。

方向音痴にとっての安定剤である。

 

大人になったのに、わたしはまだ人間関係、仕事、家、いろんなものに縛られて、自由には動けない。

19歳までは20歳になれば自由になれると思っていた。24歳のわたしは別に全然自由でもないし

朝起きて思い立っても十勝のチーズは食べに行けないのだ。精々行けるのは隣の県に流れている利根川くらいです

 

自由になりたいなあ

 

 

なんて思うけどまあ自由って何か分からないんですけどね

何をしても誰からも怒られない、とかそういう稚拙なことしか考えられないから

まだ自由になる権利はないな…

 

迷子になっても見つけてもらいたい

24年間振り返ってみて、迷子になったことはあったっけかな、と考えてみた

きっと母親に訊けば「あったわよ」と困ったように笑うんだろうけど、一応わたしの中ではそんな記憶はない

ちなみに親とはぐれてもどうすればまた会えるか、ということが分かる利発な子供だったからだと思う

小さい頃から「泣いても無駄」という思考が深く根付いていたので。

【癖になる】クリープハイプ - おばけでいいからはやくきて - YouTube

ここ2、3日頭の中をぐるぐるしている、好きなバンドの曲

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ここに出てくるこのシュールな形をしたハムスターが痛いほど自分とかぶって辛くなるのだ

特に、大好きなアニメを見て盛り上がっている後ろ姿の滑稽さは悲しくて愛おしい

ママはわたしを見て何度もこんな気持ちになったんだろう

ばかだなあ、とかだめだなあ、とか手がかかるなあ、とかそれでも"可愛いなあ"って思ってくれてただろうか

 

今もし迷子になったってわたしはたった一人でこの東京に生きているので探してくれる人もいない

仕事をしているからそれをすっぽかしたら心配して探してもらえるかもしれないが(社会不適合者とか言いつつ遅刻無断欠勤はしないタイプ)

一人で死んでももしかしたら見つけてもらえるのに何日もかかるんじゃないかって思うとゾッとするな…

お願いだから誰か、見つけてくれ

 

最近チーズドッグなるものにハマってる

正式名称は分からないけどとにかくアメリカンドッグ的なものの中にモッツァレラチーズが入っている食べ物だ

炭水化物×揚げ物という最強に凶悪な食べ物

分かりきっていることを言うけれど高カロリーは美味しい、わたしは高カロリーの食べ物は食べ物としてではなく味のついたカロリーとして見ている

今日も馬鹿みたいにカロリーを食べたけど沢山動いたし明日も痩せてるといいな

本当は安い居酒屋で梅酒のお湯割りとレバテキでも食べたいんですけどそんなことをする時間も余裕もない、それに一番はそれに付き合ってくれるフッ軽な友達もいない

ちなみにチーズドッグは懐かしい味がして、切ない冬を思い出すのでセンチに浸れていいんです

どんな食べ物より美化された甘い思い出をわざと思い出して噛み締める方が美味しい、って言うじゃないですか

わたしにはそんな美化された甘い思い出は少ないけど、それでも思い出すのはやっぱ5歳くらいのときの「一番幸せなとき」じゃないですかね

 

何を頑張ればいいのか分からないので明日もダイエットを頑張りたいと思う

 

立川駅前14時、私は生まれ変わった

JR中央線立川駅スマホを確認すると時刻は間もなく13時になろうとしていた。奈良から電車を乗り継いで慣れない東京までやって来た。


大学2年の夏、私は整形をした。整形といっても別に今思えば大掛かりなものではない。それでも当時普通のアルバイトしかしていなかった大学生が目頭を数ミリ切開するために30万円近くかき集めて来たことの無い土地まで足を運んだのである。


手術はほんの30分程度、14時にはまた立川の駅前に私は立っていた。母親から借りたサングラスはとてもじゃないけど私には不釣り合いだったと思う。


美人とブスでは生涯年収が3600万円違うと言われている。お金という最も安直な尺度でさえもこんなに差が開くほど容姿とは生きていく上で重要な要素なのである。

かなり正直に言うと不特定多数の、できれば多くの人間から「可愛い」と認められたい。

大切ではない他人の可愛いという薄っぺらい言葉にそんな価値があるのか…と大抵の人は思うのかもしれない。

価値は、多分ある。多分、というのは"可愛くて得をした"という経験が人生においてあまりないためその価値を実感することは出来ていないからだ。

でも、それは裏を返せば私がもし可愛ければきっと小さな頃からありとあらゆる場面で得をしていただろうし、あの日立川駅に降り立つこともなかったのだ。

私の30万は何に変わっただろう。

3600万というのはあながち大袈裟な金額ではないと思う。


例えば愛する人ができた時、世界中の人間が私のことをブスだと非難していてもその人がたった一言「君は可愛いよ」と言ってくれたら満足かと問われると素直に頷くことは出来ない。

まあ好きな男から顔が好き、と言われたら嬉しいんだろうけど。

 

そもそもわたし自分に向けられた好意に対してめちゃくちゃ懐疑的なのでそういう状況が生まれた場合相手が理解出来なさすぎてキモッとなってしまいがちだし、大体大事にしたいものは壊してしまうタチなのでそのたった一人でさえ軽率に失ってしまう恐れがあるけども

6月の半ばから結構ハードな減量をはじめた

今まで24年間生きて来た中で、ブスだのデブだの陰キャだのキモいだの痛いだの重いだの好き勝手言ってくるお前らも見た目どうなんだよ?みたいな奴らの"言葉"それから表情を思い出しながら汗水垂らして精神すり減らして食事制限と運動をした

褒められたくてやったわけじゃないと言ったら嘘なのかもしれんが、それが一番の目的ではなかった

「何かを頑張りたい」気持ちはすごくあるのにその「何か」が分からなくて難しくて頭を抱えるのか辛かった

わたしじゃなきゃ、だめな理由が欲しかったどんなコミュニティにおいてもだ

 

モチベーションというか薪みたいな存在になってくれたあの人間達、わたしもそんな人間達の容姿でいろんな物事を図ってしまうもんだからお互い様なのかもしれない

痛い、重い…その悪口は容姿関係ないように見えるが、多分かわいい女が私と同じ行動しても

「なんかセンスあるじゃん」って言われるだけだ(そういう浅はかなクソサブカル女を何人も見てきた)

わたしもクリープハイプ好きだしお前らはMy hair is badが好きなんだろ?badなのは髪の毛じゃなくて頭の中身です

 

結果、10キロ痩せた

大好きな白いほかほかご飯も大好きなつるつるのおうどんも全部味忘れた愛憎は紙一重なのだ

お、人間って10キロ減らせるんだウケるとなった

ダイエットは一番の整形って言うけど、10キロ痩せたとこでブスはブスで変わらないし

ってかじゃあブスがアイドルなんてやんなよって思うかもしれないけどまあそれは置いといてください

なんでアイドルになりたかったのかなんて、1から説明しなきゃいけないのはもううんざりだ、だって自分でもあんまりよく分かってないから

大義名分とか面倒なので「チヤホヤされたかったから」でもいいんです別に

チヤホヤされるの、嫌いじゃないし、あらゆる集団のカーストの上の方にいるであろう人間に相手されるのはやっぱ虚しいけど嬉しいです、くだらねえなあ

…頭上がんないんですもん

 

誰かを幸せにしたいなんて傲慢すぎる

自分のこともろくに愛せないくせに人のこと愛せないって言うじゃないですか、あれってほんとなんですかね

わたしは24年間自分のことキモすぎ恥ずかしいって思ってきたので他人のことは愛せませんか?とは言いつつ、わたしほんとは自分のこと大好きです自己愛に浸りすぎてびっしょびしょですわ〜

 

今の父親と血が繋がってない

ほんとの父親は国体に出るくらい足が速かったらしい(ほんまか?)

男はブスでも金持ってたらモテるし足が速くてドッジボールがうまけりゃモテる

血の繋がった遺伝子上の父親は残念ながら顔はかっこよくなくて、あんなに美人でハーフ顔の母親から生まれたのにわたしはその父親に似て全然可愛くないウケる

小さい頃から容姿を馬鹿にされてきた、というか容姿がパッとしないので透明人間のように扱われてきた、「わたしもここにいまーす」とドキンちゃん並の自己主張が出来れば良かったんだけども

小さい頃は知らなくて自分のこと特別で可愛くてチヤホヤされるべき人間と思ってたよ

今なら分かる、わたしはブスだしなんか…見ていて痛々しくて重々しくて、全然楽しくないんだ

 

小さい頃からどんなことを考えてどんなことに傷付いて生きてきたのかあんまし覚えてない

幸せに人よりも貪欲で人一倍自分の傷には敏感だったのでたくさんのことに傷付いてきたわけで

顔が可愛かったら馬鹿にされずに生きてこれたんだろうか、楽しく人生過ごしてたんだろうか

売れてない地下アイドルなんかせず、3600万わたしにたーんと使ってくれる男と結婚していたかもしれない

もちろん男と結婚することがイコール幸せとは限らないしわたしはどちらかというと結婚に対してポジティブには見ていないけど、少なくとも若くてイキった男を見て学生の頃自分のことをキモいっていじめてきたデブのことを思い出して頼む死んでくれ〜とはならなかったかもしれないな

(おい、デブには人権がないんだからな…)

 

デパートの1Fは大体化粧品売り場で、ありとあらゆる化粧品がキラキラと並んでおりなんか嗅いだことのないいい匂いがします

わたしはデパコスが好き、収集癖が酷い化粧品オタクなので集めたがりです

綺麗なものが綺麗に整理整頓、並べられてるのを見るのが好きなんですよ

10000円もするアイシャドウをいくら丁寧に塗ってみても瞼はつややかな煌めきを得られない、それはわたしのおめめが可愛くないからでしょうか…白目もなんだか濁ってて透明感がありません、肌は黄色くくすんでて疲れてるし、目は左右大きさ違うし、あ〜小さい頃に歯列矯正やればよかったなあ

もうコンプレックスだらけだよどこから塗りつぶせばいい?塗りつぶすどころか、押しつぶされそう

やっぱ安っぽい薬局の匂いの方が落ち着くな

 

10キロ痩せようが透明感のブルベ夏()だろうが

デパコスで化粧しようが可愛くないから全部無駄なんですよ結局

早く生まれ変わりたいです、なにに?可愛い女に

 

人間はもう疲れたなあといった感じですけどやっぱ可愛い女は可愛いので可愛い女になりたいです