偏頭痛

てんきわるいのすぐわかってべんりよね

音楽は世界を救うのか否か

実に2週間ぶりの日記である

そもそもなんで日記を書いているかというと

表現する仕事をしているからである。熟考しながら自分の考えを言葉にして纏める作業は実際どんな場面でも活きてきたりするし、思いついた綺麗な言い回しは芸能活動において肥やしになったりするわけです。

まあそんな偉そうなことを言いながら2週間ぶりになってしまった。書きたいことも表現したいことも特になかった。大抵重い腰をあげて筆をとるときは何か言葉にしてしまいたいくらい切ない気持ちになった時なのだ。

おおよそ、楽しい日々を送っていたので書けなかったのだと思う。

 

「人生とは」「なんのために生きているのか」

人間が生きる上で避けては通れない問いではないだろうか。「あ〜〜わたしなんのために生きてんの?」と思ったことがある人間は少なくないはずだ。え?だってあなたはなんのために生きているの?守るべき家族、こなすべき仕事をあげる人間もいるだろう。だけど君が生まれていなかったらそのポジションにはほかの人間がついていた。つまりどんな出来事においても"わたしじゃないとだめだった"というものは1つとして、1つとしてないのである。君のことを、わたしのことを、大切と思ってくれている人間がいるかもしれない。けどその人間との出会いは"たまたま"であって必然ではない。時間をかけて信頼度や愛情の量が変わってその"たまたま"がかけがえのないものになることはあるのかもしれないが。(この思考を教えてくれた人がいる。目からウロコだった。)

詰まるところ、わたしは24歳5ヶ月になる今も「なんのために生きているのか」「24年5ヶ月もなんのために生きてきたのか」分からずにいる。これから先も分かることがないのかもしれない、と朧気に思いながらもずっと問い続けている。この先、例えば結婚したとする。子供が産まれたとする。もしかしたら大きな仕事と巡り合うかもしれない。たくさんの人間から必要とされる時が来るかもしれない。寿命を全うするならあと60年くらいは人生が残っているはずなのでそういう瞬間が絶対ないとは言いきれない。果たしてそのときわたしは「このために生まれてきたぞ。」と胸を張れるのだろうか。否、おそらく張れない。

音楽が世界を救うのか、音楽は魔法なのか、様々な人間がそんなことを考え、議論し、争ってきたと思う。実際音楽は世界を救うのかどうかなんて知らんし、魔法、という非科学的なものは信じていない。だけどわたしは音楽をしたい、と思った時から今に至るまで、結構長い時間が経ってしまったけど一度も諦められなかった。ピアノ、ドラム、ギター、歌…といろいろ齧ってきたけど才能がないのは結構早い段階で気付いていた。まあ小さい頃からピアノを習っていたらもう少しましだったのかしれないけど、ドラムもうまくなる前に辞めてしまったしギターに関しても同じで、唯一辞めてないのが歌なんだけど、歌は悲しいくらい上手くない。人を惹き付けない。めちゃくちゃ下手な方がまだマシである。特徴がない。特徴がないから歌割りも特にわたしじゃないと務まらない部分は担っていない。ここはお前だから任せたよ。なんてところは1つとしてないことをわたしは知っているのだ。わたしの歌を聴いても「歌いいな」と思う人はいない。歌声を褒められたことは片手で数えられるくらいだ。ほんとはこれが、死ぬほど苦しくて、悲しくて辛い。辛過ぎて「もう辞めてしまいたいな」と思ってしまうのが怖すぎるからずっと目を逸らしている。

音楽は、好きじゃない。好きすぎるから好きじゃない。どうして好きすぎるのに才能がないんだろう。って才能がある人間が憎くなってしまうから。音楽が好きなせいでずっと音楽に苦しめられてきたので音楽は嫌いだ。声はどうして整形出来ないのかな〜って思う。

音楽をやっているときより幸せな瞬間は沢山ある。美味しい食べ物を食べている時、好きな人間と一緒に過ごしている時。かわいい服や素敵な化粧品を買った時。だから音楽がなくなっても、もう生きている意味ないな、なんてふうには多分絶望しない。でも、分からないから死ぬまで永遠に「なんでわたしは生きているのかな」と問い続ける。たとえ、泣けるほど幸せな瞬間を迎えたとしてもだ。音楽は残る。音楽は死なない。例えばわたしが歌った歌が入ったCD、手に入れてくれた人がそれを家の棚に並べるとする。そしたらその人の家のその棚の中でわたしは生き続ける。

音楽とはすごいのだ。音楽は記憶の手掛かりになることも多い。あのとき辛かったな。あの曲沢山聞いたな。とかあの人はあの曲が好きだったなあとかそういうのだ。わたしは未だに聴く。中学生の時好きだった曲も、それがなんで好きだったのかも覚えている。この曲を聞くとこの気持ちになる、って分かっててその気持ちを思い出したくて聞く日もある。

それが生きる意味になるかどうか分からない。が、少なくとも「あ、わたし生きていたのだな」と思う日はあるのではないだろうか。生きてきた証、みたいなもの。

音楽、それから文章。写真もそうだろう。自分の気持ちや考え、信条、想像、なんでもよい。何かを表現して"残す"ということは、もし生きている意味が死ぬまで分からなかったとしても生きていたことは実感しながら死ねるのではないかな、と思うわけです。

だからきっと辞められなかったんだろうな。

 

あぁ、妬ましいよ。歌が上手い人間が。心がグッとなるような声を持つ人間が。

死ぬ時、「わたしはこれのために生きてきたんだなあ」って思えるものと出会ってますように。