偏頭痛

てんきわるいのすぐわかってべんりよね

雑記

18年間、一人っ子だった

 

つまるところ18年間は家族、親戚の愛情は独り占めだった。特に祖父母は私が初めての孫だったため、いろんなものを孫娘に買い与え、ものだけではなくいろんな経験を与えてくれた。家庭環境は決して良くなかったけれど大してグレずに育ったのは恐らく祖父母…というか祖母の影響が大きい。(バイト休む言い訳に何度も危篤にしてごめんなさい)

6年前の今日、わたしは受験生で、あと4ヶ月後にセンター試験を控えていてすごくピリピリしていた。そして母親はその10ヶ月前から私よりもずっとずっとピリピリしていた。

弟が産まれた。

よく、子は鎹と言う。我が家ではもうわたしは鎹の役割は十分に果たせていなかったし、それどころかわたしが原因で父親と母親は殴り合いの壮絶な喧嘩をよくしていたので弟が産まれて急激に家庭は華やいだ。冬から春になったみたいだった。赤ん坊というのは可愛いもので、見ていて飽きないものなのだ。子供は好きじゃない。塾の講師を1年少しやっていたけれど生徒が可愛いと思ったことは一度も無い。教えていたのは高校生だったのでそれもそうである。けれど弟は可愛い、と感じた。その一年前に母親の妹が子供を産んだけれどその時はもっと他人事だった。それとは全然違う感覚だった。それにもう18歳だったので母親をとられる淋しさ、みたいなものが全くと言っていいほどなかった。男の子が産まれて、さらには自分の遺伝子を残せて父親は本当に幸せそうだった。父親のわたしに対する悪意なき束縛が少し和らぐんじゃないかと密かにわたしは期待していた。

 

わたしは受験に失敗した。ピークで成績が良かったのも受験に対してすごくモチベーションがあったのも高校2年生の冬頃までで、何故か高3になると、どんどん勉強が手につかなくなってしまって、それまで得意だった教科の点数さえも落とすようになってしまった。第一志望の判定が高2の時より落ちた時、わたしワンランク志望校を落とした。センター試験には自信があった。国語も数学も社会もセンター模試では大体8〜9割をマークしており、高3の夏に設定し直した志望校だと、A〜B判定は余裕で出ていたのでわたしも、そして恐らく両親も、それからずっとわたしの味方でいてくれていた祖母もまさかわたしが大学に落ちるとは思っていなかったに違いなかった。

 

まあ、落ちた。

あれだけ自信があったセンター試験にこけた、というかもう分かっていた。受ける前からこれは無理だ、と

後にも先にもあれほど緊張で手が震えたことは無い。自己採点する前からもうダメだって分かって、帰りに母親に肉まんを買ってもらった時はもう死んでもいい、とさえ感じた。あの頃はもうずっと、テストに失敗しただけで成績を落としただけでもうわたしは死ぬしかないんじゃないか、と思ってしまう人間だったのだ。

あとはもうお察しで、わたしは全然志望していない家から2時間以上もかかる大学に入学、そして"いろいろあって"中退をした。あのセンター試験の日、多分私は死んだ。それから親の興味も祖父母の興味もすべて母親の妹の子供や、弟にうつった。家庭でもわたしは透明人間になってしまった。

 

けれど同時に何かから解放されたような気持ちにもなった。今まではいい大学に入るためだけに生きていたのだ。いきなりそれが絶たれてやりたいことを好きにやってもいい環境に立たされた。やりたいこと?なんてものはなかった。そして大いに困り、大いに時間を無駄にし、今に至る。

 

アイドルはリバイバルだった。わたしの再生。違う名前になったら生き返ることが出来る、そう感じた。人権を得た気持ちになった。

 

弟は今もすくすく育っていて、なんと私立の幼稚園に入学した。とても制服が可愛くて人気者だそうだ。友達もたくさんいるみたい。笑うと大福みたいになる、あの笑顔を見るとなんか何もかもがどうでもよくなる時がある。

子供の笑顔は薬だ、わたしは弟と同じ歳の頃はあんなふうにんふふふふとは笑わなかった。

今と同じ、アイドルと一緒、誰に対しても求められた笑顔しか出来なかった。それを見て母親はどんなことを考えていたのか、母親はわたしの笑顔が好きだ、とは言ったことがない。

 

弟が優しい子に育っていることを感じられる瞬間は多々あって、それを感じる度に仄かな誇らしい気持ちと嬉しい気持ちになる。

「優しい子」だよ、ってずっと言われてきた。私はそう言われるのが嬉しかった。ママが何度も言ってくれた。わたしが優しい子でいることでママの今までの子育ては間違ってなかった証明になっていた。あなたは優しい子だよと言われる度にいつもちょっと泣きそうになるのだ。

 

ほんとは優しい子じゃない

でも今は生き返ってずっとずっとなりたかった"優しい子"として生きてるんだ